Vol.07 ~アノニムの世界~

異 Separate

Vol.07 ~アノニムの世界~ 異 Separate

まさにアートの世界――吸い込まれそうな小宇宙だ。小さなガラスの器に入った液体は、今が旬の豊水梨の果汁とバジルオイル。融合しない水と油が描く美しさ。「異質感も嫌いじゃないし…」と加古拓央シェフ。スプーンですくって口に運ぶと、梨の甘みとぱっと広がるバジルの爽やかな風味がそれぞれに主張する。でも決してケンカしていないのが不思議な感覚だ。優しさの中の確固とした主張がとても今の加古さんらしい。北野にあった『レストロエスパストランキル』を閉店して『アノニム』を開いた。アノニムとは匿名という意味。誰の真似でもなく自分の料理観を表現したいというシェフの意志がそこにある。

応 Response

Vol.07 ~アノニムの世界~ 応 Response

このページに登場いただくシェフには共通項がある。皆、目線の先に世界を捉えているのだ。神戸にとどまらず世界へ飛び出しても十分に勝負できる人たちだ。加古さんを刺激する親友は、パリで話題の『ル・シャトーブリアン』のイナキ・エズピタルト氏。互いに神戸とフランスを行き来し交流を重ねる。イナキ氏が作っていたのが焦がしたナスのペースト。「僕は食材を焦がすことに躊躇していたんですけど……」と加古さん。さっとソテーした剣先イカとグリルした万願寺唐辛子。当然下の黒はイカスミだろうと思いきや、これが唐辛子の灰を伸ばしたソース。親友のクリエイティヴィティーに呼応して生まれた。

枯 Wither

Vol.07 ~アノニムの世界~ 枯 Wither

料理人は常に皿の上の表現者であるべきとシェフ。「今だに伝えきれないもどかしさも含めて、ですけどね」と付け加えて苦笑い。「白い皿に盛り付ける方が綺麗というセオリーはわかっているんです」と言いつつ運ぶ深紫の皿に、紫の野菜を重ねている。焼いたビーツ、紫芋のチップスとペースト、紫キャベツのソテーに赤玉ねぎのマリネ。その下に経産牛のサーロインのローストが隠れている。牛肉はメスの未経産牛の方が柔らかくて美味とされるが「子を産み育て、メス牛としての命を全うした肉のよさがあります」と。生物として自然に生きて枯れたメス牛の肉を食み、“枯れる”って素敵なことなんじゃないかと思った。

悔 Regret

Vol.07 ~アノニムの世界~ 悔 Regret

これは「オニオングラタンスープを吸ったクロックムッシュ」という一皿。若き頃働いたスイス国境に近いオートサヴォアの二ツ星レストランは三代続く古い店だった。そこで加古さんは、フランス・ビストロ料理の定番メニューである、オニオングラタンスープを日々作っていた。店には毎日シェフのお母さんが食事に来て、毎回このスープをオーダーする。さあこれからという時にやむなく帰国することになった加古さん。最終日、大マダムから「あなたの作るオニオングラタンスープが好きだったのに」と言われた。志半ばで去った店の、悔しい思いが自分の料理の原点と、小さなパンの中にたっぷりと思い出の味を染み込ませた。

11年にオープンした『アノニム』は北野で10年続いた『レストロエスパストランキル』の加古拓央さんの新ステージだ。調理は一人で、その時出したい料理をおまかせコース一本で提供。振り返ってみてもこの人ほど料理のヴィジュアルが大きく変わる料理人を見たことがない。ある時はビストロっぽく豪快、ある時はレストラン然と。今、背負っていた荷物をすべて降ろし、自由に表現できる場を持てたようだ。料理はずい分尖ったように見えるが、味わうと温かく、滋味深い、加古さんの料理だった。いつもフラストレーションを抱え、もがきながら自己表現を模索する泥臭さが加古スタイル。常に苦悩する料理人。ゆえにセレクトした漢字がややネガティブなのもこの人らしい。


写真/太田恭史 Photographs by Takashi Ohta

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